答えられない問いかけ
わたしは,その時,ことばを失った。
「あたしなんのために生きてるの」
わたしたちの前には,夜の闇が待っていた。わたしは靄がかかって前がよく見えない国道を,たぶん100キロ近いスピードで車を走らせていた。そのハンドルを握る手のひらが震えていた。
こんな夜に,そんなこと言われても,今さらどうしようもないじゃないか。
「ふざけたこと言うんじゃない。これから・・・」
わたしは,右にハンドルを切った。そのとたんに,後ろのタイヤが滑った。ハンドルが制御できなくなった。
「おぉぉぉぉぉ・・・」
わたしの叫び声だけが冷たく響いた。彼女の方を見る余裕がなかった。車は一気にガードレールを越えて崖下に落ちていった。
気がついたときには,手も足も動かない状態だった。ただ白い部屋に寝かされていることだけがわかった。知らない人が,わたしの顔を心配そうに覗きこんでいた。
「サクタロウ,サクタロウ,目が覚めたのね。ほんと,よかった・・・。よかった・・・」
泣いている初老の女性はいったいだれだろう。わたしには理解できなかった。なぜ泣いているのか。なぜわたしがここにいるのかも。
「わたしの名前はサクタロウっていうんですか」
その女性は驚いた顔をわたしに向けたまま,ことばをつないだ。
「そうよ,あなたは生まれたときにわたしたちがサクタロウって名前をつけたのよ」
そういうこともあったのかもしれない。ただ,今のわたしの記憶のなかではそれはただの空想にしかすぎなかった。現実の出来事として実感がわかないのだ。
「もしそうだとしても,わたしには今それがほんとかどうかわからないのです」
女性は涙を見せないようにうつむきながら,付き添いの椅子に深く腰かけなおした。
「あなたはわたしの・・・」
その瞬間,また意識が遠ざかってしまった。なにかをつぶやいているらしい女性の残像がまぶたの裏側にとどまりつづけた。
桜の花が満開だった。いつの間にか眠っていた。わたしの横には小学生になったばかりのひとり息子が寝息をたてていた。
「今年も桜がきれいね」
妻のひとことには,なんの他意もなかった。わたしはそのことばになぜか胸の奥にチクリとくる痛みを感じていた。
「そうか,また今年が来たんだな」
妻はその時わたしの目の奥に潜むなにかを探るような視線を向けた。
「あなた,もし生まれ変わったら,なにになりたい?」
わたしは突然の問いかけに,なにかこころの奥で砂がくずれるような気がしていた。もはや,忘れてしまった遠い昔の出来事に,触れてしまったかのような不思議な感触。
「・・・・・・」
わたしは無言でいることがすべてだと思った。人生の秘密について,言えないことも,言ってはならないこともあるはずだ。
桜の花びらがわたしたちの頭に落ちてきていた。
わたしは今息子がどんな夢を見ながら眠っているのだろうか,ふとそう思った。
「あたしなんのために生きてるの」
わたしたちの前には,夜の闇が待っていた。わたしは靄がかかって前がよく見えない国道を,たぶん100キロ近いスピードで車を走らせていた。そのハンドルを握る手のひらが震えていた。
こんな夜に,そんなこと言われても,今さらどうしようもないじゃないか。
「ふざけたこと言うんじゃない。これから・・・」
わたしは,右にハンドルを切った。そのとたんに,後ろのタイヤが滑った。ハンドルが制御できなくなった。
「おぉぉぉぉぉ・・・」
わたしの叫び声だけが冷たく響いた。彼女の方を見る余裕がなかった。車は一気にガードレールを越えて崖下に落ちていった。
気がついたときには,手も足も動かない状態だった。ただ白い部屋に寝かされていることだけがわかった。知らない人が,わたしの顔を心配そうに覗きこんでいた。
「サクタロウ,サクタロウ,目が覚めたのね。ほんと,よかった・・・。よかった・・・」
泣いている初老の女性はいったいだれだろう。わたしには理解できなかった。なぜ泣いているのか。なぜわたしがここにいるのかも。
「わたしの名前はサクタロウっていうんですか」
その女性は驚いた顔をわたしに向けたまま,ことばをつないだ。
「そうよ,あなたは生まれたときにわたしたちがサクタロウって名前をつけたのよ」
そういうこともあったのかもしれない。ただ,今のわたしの記憶のなかではそれはただの空想にしかすぎなかった。現実の出来事として実感がわかないのだ。
「もしそうだとしても,わたしには今それがほんとかどうかわからないのです」
女性は涙を見せないようにうつむきながら,付き添いの椅子に深く腰かけなおした。
「あなたはわたしの・・・」
その瞬間,また意識が遠ざかってしまった。なにかをつぶやいているらしい女性の残像がまぶたの裏側にとどまりつづけた。
桜の花が満開だった。いつの間にか眠っていた。わたしの横には小学生になったばかりのひとり息子が寝息をたてていた。
「今年も桜がきれいね」
妻のひとことには,なんの他意もなかった。わたしはそのことばになぜか胸の奥にチクリとくる痛みを感じていた。
「そうか,また今年が来たんだな」
妻はその時わたしの目の奥に潜むなにかを探るような視線を向けた。
「あなた,もし生まれ変わったら,なにになりたい?」
わたしは突然の問いかけに,なにかこころの奥で砂がくずれるような気がしていた。もはや,忘れてしまった遠い昔の出来事に,触れてしまったかのような不思議な感触。
「・・・・・・」
わたしは無言でいることがすべてだと思った。人生の秘密について,言えないことも,言ってはならないこともあるはずだ。
桜の花びらがわたしたちの頭に落ちてきていた。
わたしは今息子がどんな夢を見ながら眠っているのだろうか,ふとそう思った。
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