悲しみの後始末

 ぼくは夜の街を歩くのが好きだった。というより,昼間の明るい世界の中に身をさらすことが恐かった。
 夜はぼくにとって魅力に満ちていた。暗がりの真っ黒な空間には,ときどき犬や猫でない,特別な生き物が隠れていることがある。その姿は一瞬しか見えないけれども(いや見えた気がするだけかもしれないが),そのなんともいえない不気味さがぼくにとっては一種の感動なのだ。

 その日も,ぼくは夜の街を歩いていた。ここは東京の下町で,路地裏に入ると,木造家屋の二階に洗濯物が干してあったり,道端で魚を焼いていたり,下駄履きで銭湯に行く人に出逢ったり,かなりおもしろい街ではあった。
 ぼくはその頃,失恋をして生きることをやめたくなっていた。世間とのつながりは,その恋人ひとりきりだった。ぼくは他のだれとも話をしなかったし,他のだれとも近くに寄ることはできなかった。ぼくは自分のすべてを恋人に託した。ただ,ぼくの恋人は次第に他の友だちとの関係を乱すぼくの存在が邪魔になっていった。だんだん逢う機会が少なくなった。恋人は理由をつけてぼくと逢わないようにしていた。そのうち熱は冷めるだろう,そのように思っていたのかもしれない。
 だが時が経つほどに,ぼくの思いはつのっていった。離れてゆくものを追いかけてゆくのはぼくの本能に近いものだった。ぼくは恋人のアパートの近くで,恋人の様子を伺っていた。それはだんだんエスカレートして,いわゆるストーカーと呼ばれる段階になっていった。
 ぼくは警察官に尋問され,これ以上同じ行為をつづけた場合は,令状をもって逮捕されることになると釘を刺された。
 恋人はぼくを警察に売ったのだ。売られたぼくは恋人がそこまでする気持ちを理解できなかった。にんげんがにんげんを避けることは存在を消滅させることだ。ぼくにとって恋人以外の他のにんげんは近づくことのできない獣だと思っていた。
 ぼくはなぜか涙を流して泣いた。悲しかったのだろうか。せつなかったのだろうか。この世から隔離されてしまう自分を嘆いたのだろうか。
 結局,それはわからなかった。わからないまま,恋人がいつも乗っているJR山手線U駅で待ち伏せをしていた。どういうつもりで恋人を待っていたのかいまだにわからない。
 その日も夜だった。夜の駅のホームは暗い。そのホームの片隅に思わぬ暗闇がある。
 それが,まちがいのもとだった。ぼくは恋人が乗ってきた車輌を確実に視覚にとらえて,そのホームの上で恋人をつかまえようとした。つかまえてどうするのかそこまでは考えていなかった。
 恋人は車輌のドアが開くと,ホームに足を踏み出していた。ぼくは目の前にいた。
 ところが,ぼくの後ろの暗闇から獣の牙がぼくの左のふくらはぎをえぐるように噛みついてきた。その激痛に思わず立ちどまりうずくまった。恋人はぼくの顔を見たとたん,逃げるように改札口に走っていった。ぼくは完全に身動きできずに,恋人を見送ることしかできなかった。
 獣の牙はぼくのふくらはぎを喰いちぎり,ぼくの左足は膝から下がなくなっていた。

 ぼくはそれ以来,左足の義足を注文しているが,病院の医師は必ず「もう少し待ってくれないか」といって,いつまでも義足が届くことはない。
 そして,この病室には窓に鉄格子がついている。ドアも鉄の硬い扉で自分で開けることはできない。これも恋人の仕打ちだろうか。
 ぼくは今,悲しみの後始末をつけられないままでいる。

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この記事へのコメント

2005年04月18日 16:41
どこまでが現実なのかよく分からないのですが、過去の出来事にあまり執着せずに、解放していくことが大切です。悲しみの後始末は、ひとつずつその時々の状況を客観的に観て、その時何を感じたのかなどを検証して、確認作業を繰り返していくことです。そして、もうその時の自分は過去にはいなくて、成長した今の自分なのだと認めることだと思います。
つまり過去に置き去りにされている自分を今に引き上げるのです。そして、自分の人生は誰でもない自分が設計したのだということを思い出すのです。時間がかかっても必ず抜けられる道です。p(*^-^*)q がんばっ♪
2005年04月18日 17:18
コメントありがとうございます。
これはすべてフィクションですが,気持ち的にはわたしの過去と重ねあう部分があることも確かです。
 まだ主観的な内容になっているとしたら,まだわたしの至らない点なのかもしれません。
 意味のないものがたりもないはずですから。
 Θ^^Θ
 
2005年04月18日 23:11
こんばんは。
作家を目指していらっしゃるのですか?至らないということは。
フィクションであっても、自分の中から出ているのは確かですから、やはり内面の映しだと感じます。ノンフィクションでも、フィクションであっても、受けるものは変わらないですね。
「フィクションの中の君よ、過去を超えていこうう!」と。*^-^*
2005年04月18日 23:22
こんばんは。
書くことは自分の素になっています。
たぶん一生書き続けることになると思います。
永遠のアマチュアでありたい。お金とは無縁に,ほんとうに書きたいことを死ぬまで書き残してゆきたいということです。
 たしかにフィクションのなかであっても,読まれたかたの受けるものはいっしょですね。
 「超えられない過去はない」そう信じています。ただ今はまだ超えていないのですΘ^^Θ

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