方向音痴

 久しぶりに晴れ渡る空を見上げて、彼はふとため息をついた。
 仕事に就くたびに、トラブルに巻き込まれた。
 彼女にもふられた。最後に勤めていた会社は倒産し、給料も貰えなかった。
 サイフの中は埃しかなかった。空を見上げても、どうしようもなかった。自分ではどうにもならないことばかりなのか。彼は口から小さなものを吐き出していた。
 それは歯茎が腐って抜けてしまった奥歯だった。

 「すいません、ここからいちばん近い駅はどこでしょうか」
 彼はそれが自分に対してされている質問だということをしばらくたってから気がついた。
 「わたしにはわかりませんが」
 そう答えると、彼女は当然であるかのように彼に依頼した。
 「では、わたしといっしょに探してください」
 どこにでもいる女性、といっては失礼かもしれないが、ほんとうに特徴がなく、髪の毛も肩先まで伸ばしているのだが、顔の印象はほとんどない。
 彼はただ言われたとおりに彼女の後についていった。彼にとって今やることは、なにもなかったからだ。

 彼女は他のだれにもなにも聞かず、地図やナビゲーションのようなものも利用せずに、ただひたすら歩いていた。
 彼は途中から疑問を抱いた。
 「これがいちばん近い駅を探す方法とは思えませんが」
 彼女は、はじめて彼がそこにいるのに気がついたかのように、彼の顔を見つめた。
 「歩きながら探しているのです。黙ってついてきてください」
 焼き鳥屋の赤提灯の前から、何も書いていない怪しげなビルの路地裏まで、この街にはこんなところもあったのだと思わせる、意外な発見もあった。
 「ヒプノセラピーとかいう施術もこんなところでやっていたんですね」
 彼女は無表情のまま、ただ次から次へと道を制覇していった。風俗街を抜けて、飲食街をこまめに縫うように歩き、オフィス街から住宅地へと向った。
 ただ、駅なんかひとつもなかった。

 「疲れませんか」
 彼は疲労困憊していた。目的地にたどり着けない歩行が、こんなにもつらいことだとは思いもよらなかった。肉体的に精神的に、もうぼろぼろになっていた。
 「ここだ。ここにありました」
 彼女の指差す先には、たくさんの石塔が見えた。
 その時、彼の奥歯がもう一本、ぐにゃりと抜けてしまってアスファルトの上に転がっていった。






 

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